イタリア縦断 ボブ・ディランとイタリア芸術探訪の旅 vol.16 【Piazza della Signoria(シニョーリア広場)とA plaque commemorates the site of Savonarola’s execution(ジローラモ・サヴォナローラ処刑のプレート)】 アカデミア美術館から南西に向かって歩くとドゥオモやジオットの鐘楼に辿り着く。 最も観光客が訪れると思われる、これらの建造物の前では、ストリート・ミュージシャンが演奏をしていたが、クラシックギターによる静かな演奏がメインで、景観にハマっているのが印象的だった。 さらに歩くとシニョリーア広場が見えてくる。 ここにはフィレンツェの歴史に大きな影響を及ぼした1人の修道士に関するプレートがある。 それがこれ。ジローラモ・サヴォナローラが絞首刑のうえ火刑にされたことを記録するプレートだ。 フィレンツェは、商業で発展した街だ。 これは特産品がなく、繊維の加工業、そしてそこで得た利益をベースに金融業が発展したことが背景にある。 そんなフィレンツェを中世、支配していたのがメディチ家だったが、フランス王シャルル8世がイタリアに攻め込んだ際、当時の党首・ピエロ2世は上手く対処できず、支配していたピサが独立してしまう。 海に面しているピサを失ったことでピエロは市民の支持を失いフィレンツェから追放の憂き目にあう。 その後、フィレンツェの指導者となったのが、ジローラモ・サヴォナローラという修道士だ。 この人物、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じ1452年生まれで、相当に説教が上手かったらしい。 一時期はフィレンツェ中の人々が彼の教えを聞こうと詰めかけたようで、ミケランジェロも影響を受けた1人だ。 彼はフィレンツェをメディチ家による支配から共和政に移行させることに成功した。 しかし、ピサとの戦費負担を市民に課したこと、「フランスによる侵攻はイタリア人の堕落に対する神の罰だ」と啓蒙し、風紀を締め付けたことで、徐々にサヴォナローラへの不満が募っていく。(彼が「虚栄の焼却」と称して本や贅沢品を燃やしたのもこの広場だった) 説法内容もどんどんエスカレートし、果ては教皇批判まで飛び出す始末。 結果、彼は教皇から破門され、市民からの支持も急降下した。 決定打だったのが、サヴォナローラの弟子がぶち上げた「自分たちの正しさを証明するため、火の中を歩く」というイベントだった。 このイベントはさすがに市民も大きな関心をもって迎えたが、結局は中止となり完全に信用は失墜したのだった。 1498年、サヴォナローラは絞首刑の上、火刑となり生涯を終えた。 ヴェッキオ宮殿の建つ角にある丸い噴水のそばの地面にある、この丸いレリーフ。 これがジローラモ・サヴォナローラが絞首刑のうえ火刑にされた記録プレートなのだ。 熱心に写真を撮っていたのは私ぐらいだったが、このプレートは、中世フィレンツェの動乱を記した大事な史跡なのだ。 歴史好きなあなたがフィレンツェを訪れたならば、是非、このプレートを見て、遠い昔の修道士に思いを馳せていただきたい。 またヴェッキオ宮殿前には、ダヴィデ像のレプリカも置いてある。 ダヴィデ像は反メディチ家の象徴として大衆に見える場所に置く……という政治的な意図があったため、この地に置かれていた。 損壊を防ぐため、本物がアカデミア美術館に移設されて以降は、レプリカが置かれるようになったのだ。 そして、この広場から少し歩くと、大きな建物と大行列が見える。ウフィツィ美術館だ。 次へ (2013/11/03) |
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