イタリア縦断 ボブ・ディランとイタリア芸術探訪の旅 vol.9 【Castello Sforzesco(スフォルツェスコ城)】 スカラ座を出て、さぁ再びスフォルツェスコ城! たどり着いた頃には昼下がりで、観光客も増え随分と混んでいた。 さぁ、これが博物館内。 スフォルツェスコ城博物館は、古代美術、絵画、装飾芸術といったジャンルごとの資料館の集合体だ。 この中でも、今回特に観たかったのは古代美術館。 ここには、巨匠ミケランジェロの遺作となった「ロンダニーニのピエタ像」があるのだ。 順路通りに進んでいくと、いくつもの絵画、彫刻や武器が展示されている。 まず目を引いたのはレオナルド・ダ・ヴィンチが装飾を行なったという天井・壁。 パトロンのルドヴィコ・スフォルツァが依頼した↑の装飾。記録によれば、レオナルドは1498年4月時点で、この壁を手掛けており、9月には終了することを約束しているらしい。 1498年といえば、「最後の晩餐」(サンタマリア・デ・レ・グラツィエ教会)が完成した年。 レオナルドもパトロンの住む城と教会の間を徒歩で往復しながら制作をしていたのかもしれない。 この装飾は、「重なる岩に根をはった植物が天井にからまる枝を支える長い木の幹を揺り動かす」(展示解説より)という雄大な自然の詩であり、同時に「雄大な大志と文化的素養を持っていたルドヴィコを称えるものであった」と思われる。 レオナルドが名声を勝ち取ったのはルドヴィコの支援による部分が大きいし、きっと気合を入れて作業をしていたんだろうなぁ。 この絵、1800年代末期に城の修復作業をが行われた際、上から板張りとされて長らく闇に隠れていたが、後に発見され、1954年の新たな修復作業で板が外されたことでようやく日の目を見たそうだ。 大分傷んでいるが、今立っているこの場所でレオナルドが絵を描いていたのを想像すると思わずニンマリ。 ↑は、1400年前後のロンバルディア彫刻、聖母子像だ。 解説によれば、ドゥオモ着工によって、北方の文化が導入された頃のものだそうで、"型にはまった技巧の追求"の跡が見受けられるとのこと。 確かに、聖母の服のヒダは、これでもか、というぐらいに波打っている。 彫刻を見ていくと次にあるのが↑のメディチの銀行の門。 これは、フランチェスコ・スフォルツァ(スフォルツァ家最初のミラノ公)が、フィレンツェの銀行家、コシモ・デ・メディチに贈ったもの(の移設)。 銀行のミラノ支店用に作られた門で、くぐると1400〜1600年代までの白兵用の武具、そして砲器などが飾られている。 武具の部屋を抜けるとあるのが↓これ。ルイ12世の甥でフランス軍の傭兵隊長であったガストン・ド・フォアの霊廟。 「バンバイア」と呼ばれた彫刻家アゴスティーノ・ブスティによるものだ。 これらの作品を見ていくと最後に……あった! ミケランジェロのピエタ! ミケランジェロは1474年、貴族の子として生まれた。 画家を志し、13歳の頃、フィレンツェの大工房・ギルランダーイオ工房に入っている。 親の職業を継ぐのが一般的だった当時、下級とはいえ貴族だったミケランジェロが画家になることには反対も多かったようだが、後年、彼が多額の収入を得るようになると、家族も経済的に頼り切ったそうだ。 工房での住み込み修行が1年ほど経った頃、当時実質的にフィレンツェを治めていたロレンツォ・デ・メディチの知遇を得たミケランジェロは、メディチ家の彫刻コレクションを見たり、宮廷に出入りするようになる。 やがてロレンツォが亡くなり、フランス王シャルル8世がイタリアへ侵入。そしてフィレンツェはサヴォナローラによる神権政治が行われるようになる(この辺りは、明日訪問するフィレンツェのレポートでもう少し詳しく書く) 当初サヴォナローラに心酔していたミケランジェロだったが、19歳の時「友人の夢に出たロレンツォ・デ・メディチのお告げ」と称してフィレンツェを逃亡、ヴェネツィアを経由してボローニャに居を移す。(ジャン・フランチェスコ・アルドヴランディ家に寄宿) ボローニャには初期ルネッサンスの彫刻家ヤコポ・デッラ・クエルチャの作品があり、例えば「アダムとイヴ」を主題とした一連の作品を観たミケランジェロは、その筋肉質な男性裸体像に影響を受けたようだ(後に彼が作るダヴィデ像は、フィレンツェで観る予定!) 1年ほどしてフィレンツェに戻ったミケランジェロは兄弟で分裂していたメディチ家、ローマの枢機卿ラファエーレ・リアーリオなどのために仕事をする。 ラファエーレ・リアーリオは、ミケランジェロをいたく気に入りローマに呼び寄せて周囲に紹介。 ラファエーレの従弟で、後にミケランジェロ最大のパトロンとなる教皇ユリウス2世との出会いもこの頃だ。 またラファエーレの友人ヤコポ・ガッリの紹介によってフランス人枢機卿ジャン・ビレール・ド・ラグローラから請け負った仕事が、ミケランジェロの出世作「サン・ピエトロのピエタ」だ。(この作品は、ヴァチカン市国で観る予定なので、ローマレポートにて書く) この作品で一躍名を上げたミケランジェロは、フィレンツェに戻り、ダヴィデ像などを制作。 そしてレオナルド・ダ・ヴィンチとの接点なども持ちつつ、教皇に召還され、再度ローマに戻ることになる。 教皇ユリウス2世はミケランジェロにサン・ピエトロ大聖堂に墓碑を作らせること、そしてシスティーナ礼拝堂の天井画制作を命令。(こちらもローマ編で紹介予定!) この天井画制作、ミケランジェロは相当に嫌だったらしく、ラファエロを推薦して逃げようとしたらしい。 だが、頑固さではミケランジェロを上回るユリウス2世。最終的にミケランジェロも従うしかなかった。 また墓碑制作はユリウス2世の死後も続き、結果的に40年という長い歳月の間、彼を苦しめることになる。 天井画を約4年の制作期間で完成させた後、ミケランジェロはレオ10世(ユリウス2世を継いで即位した教皇。ロレンツォ・デ・メディチの息子)からの仕事を請け負うため、フィレンツェに引越す。 元々メディチ家に世話になり、旧知の間柄だったミケランジェロはメディチ家の礼拝堂制作などを拝命したのだ。 この後、レオ10世、後継のハドリアヌス6世の死を経て、続く(レオ10世の従弟)クレメンス7世の時代もミケランジェロは引き続きサン・ロレンツォ大聖堂の再建に携わった。 この間、神聖ローマ皇帝カール5世がイタリアに侵攻してローマ略奪を行い、再び民衆蜂起によるフィレンツェ共和国政府の樹立が宣言される。(これにより、メディチ家は再びフィレンツェを追われた) ミケランジェロは散々メディチ家に世話になっていたはずだが、反メディチの革命軍に入り、要塞建築などに携わっていたりする。 不安な政情の中、ヴェネツィアやフェッラーラへの逃亡も経てフィレンツェに戻ったミケランジェロ。しかし、結局、皇帝とクレメンス7世の連合軍がフィレンツェに入城し、革命軍の粛清が始まる……が、ミケランジェロはクレメンス7世に赦され、礼拝堂制作へと戻る。 やがてローマに移ったミケランジェロはクレメンス7世、そして続く教皇・パウルス3世からシスティーナ礼拝堂に「最後の審判」を描くことを望まれる。 「最後の審判」を完成させ、ずっと中断していた教皇ユリウス2世の墓碑制作を終えた頃、彼は既に70歳になっていた。 晩年は、兄弟やその子供、長年苦楽を共にした助手など近しい人たちが次々と亡くなっていき孤独になったミケランジェロ。 そんな彼が死の直前まで作っていたのが、今、目の前にあるピエタ像だ。 さぁ、もう1度、近づいて観てみよう。 はっきり言って、本作の彫りは弱々しく感じられる。 それは若かりし頃、彼の名を一躍広めた「サン・ピエトロのピエタ」と比べれば一目瞭然だ。 だが、栄光も挫折も味わい、愛する人や仲間、歴代の教皇はじめパトロンたちを失い最後に残った孤独な天才芸術家が求めたのは、母性だったのではないだろうか。 弱々しいが、柔らかくあたたかい。 未完だからかもしれないが、実物を目の当たりにして受けたのは、そういう印象だった。 気紛れな天才が最後に残した作品が、そんな柔らかな印象を与える作品だったことに胸をしめつけられるような気分になりつつ、私はスフォルツェスコ城を後にした。 ピエタ像の後部。 さぁ、次に訪れるのはミラノで最も美しい教会だ。 次へ (2013/11/02) |
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