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イタリア縦断 ボブ・ディランとイタリア芸術探訪の旅 vol.3

【Castello Sforzesco(スフォルツコ城)】
改めてホテルを出たのは6時20分頃。まだまだ暗い早朝。
そんな時間から大通りでは、移動販売車がピザを売っている。
Villa San Giovanni駅からCairoli駅へ移動すると目の前すぐに広がるのがスフォルツェスコ城だ。


2015年にミラノ国際博覧会(EXPO)が開かれるということで、手前には準備中のモニュメントも。

スフォルツェスコ城から南東にかけてはVIA DANTE(ダンテ通り)という大通りがあるので、歩いていく。



イタリアという国家ができたのは1861年のことで、歴史的には日が浅い。
それまでは各地方に都市国家があり、独立した自治を行っていた。
ミラノもかつては「ミラノ公国」という1つの国で、中世には様々な公爵が支配していた。

スフォルツェスコ城の歴史は、ヴィスコンティ家がミラノを治めていた時代まで遡る。
1368年、時のミラノ支配者・ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ(Galeazzo II Visconti)が自身の居城として建築したのが始まりで、その後、内外の敵への防御としてミラノを取り囲むように拡張されていった。

当初、「喜びの門(Porta Giovia)の城」と呼ばれていたこの城は、15世紀半ば、ヴィスコンティ家がスフォルツァ家に取って代わられた後も、スフォルツァ家の居城として存続。
フランチェスコ・スフォルツァ(Francesco Sforza)が再建して以降、スフォルツェスコ城と呼ばれるようになった。

そのフランチェスコの息子ルドヴィコ・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)は、父を称える騎馬像を作ろうと計画し、制作の申し出を募ったのだが、この時に自薦状を送ってきたのが、あのレオナルド・ダ・ヴィンチだ。

フィレンツェ郊外で生まれたレオナルドは、アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房で修行。建築から彫刻、絵画まで広範な仕事を経験し、芸術性や工学知識を身に付けながら単独の仕事を請け負うようになっていったが、フィレンツェ時代は(関係者に才能を評価されてはいたものの)世間的には無名な画家であった。

そんな彼が30歳を迎え、人生の転機とすべく勝負に出たのが、この自薦状によるミラノ進出で、興味深いことに彼は芸術家としてではなく、軍事専門家としての才能をアピールしている。

「恐らくルドヴィコはただの芸術家よりも富国強兵に役立つ人物を求めているだろう」
そう読んだレオナルドは、「攻城戦に役立つ攻撃用兵器の制作方法」、「軽量で丈夫で持ち運びできる橋のアイデア」、「砲撃が不可能な城を攻略する方法」などを知っていることを売りにして、見事に採用される。
そして、この地で、画家として、そして音楽家、建築家として名声を勝ち取っていくのだ。

なおレオナルドの初期パトロンとなったルドヴィコは、後にフランス王国との戦いに敗れ、投獄・獄死している。



目の前のスフォルツェスコ城を見上げていると7時を知らせる鐘が鳴った。
係員のおじさんが出てきて門を開く。スフォルツェスコ城に一番乗り!


スフォルツェスコ城を独り占め。レオナルドもこの場所を歩いていたに違いない。


フランチェスコやルドヴィコの逸話に思いを馳せる。ここにはスフォルツァ家の栄枯盛衰がある。



ところでアルファロメオのエンブレムで有名な蛇のマーク。これは、元々はヴィスコンティ家の紋章だったもので、ミラノ市の紋章でもある。
スフォルツェスコ城はヴィスコンティ家の居城だったこともあり、いたるところでこのマークを見かけることができる。









城内には美術館があり、ミケランジェロの生涯最後の作品となったピエタが展示されているのだが、開場時間は9時とのこと。
後で再訪することにして、一旦、ミラノの街を歩こう。

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(2013/11/02)



(制作:木戸涼)

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