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特集・菊池川流域と菊池一族


2019年7月19日〜9月1日まで熊本県立美術館で「日本遺産認定記念 菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」展が開催されました。
大変素晴らしい内容でしたので、「好い〜と九州」でも、展示会の内容をベースに、中世の熊本で大活躍した菊池一族を中心に菊池川の歴史を紹介したいと思います。行けなかった方の追体験になれば幸いです。

1. 日本遺産 菊池川流域
2. 古代の菊池川流域
3. 飛鳥〜奈良時代の菊池川流域
4. 平安〜鎌倉時代 菊池一族の登場と蒙古襲来
5. 南北朝時代の菊池一族
6. その後の菊池一族
7. 戦国〜江戸時代の菊池川流域
8. 菊池一族・関連史跡探訪(準備中)

1. 日本遺産 菊池川流域

阿蘇外輪山の源流から大分県や熊本県北部を流れて有明海にそそぐ一級河川・菊池川。
その流域では、古くから米作りや伝統的な祭り、食など人の営みが行われてきました。
こうした遺産が現在でも見られることから2017年4月に「米作り、二千年にわたる大地の記憶〜菊池川流域「今昔物語『水稲』物語〜」として日本遺産に認定されました。
(構成文化財は公式ウェブサイトを参照)
本ページでは、以下、古代から菊池氏滅亡までを中心に菊池川流域の過程を紹介します。


(菊池渓谷)

2. 古代の菊池川流域

全国的に米作りが始まった弥生時代、菊池川流域でも水を引きやすい川沿いの平地で稲作が始まりました。
こうした時期に作られた鉄製農具、貝殻のブレスレットといった遺産は、熊本でも特に菊池川流域から多数発掘されています。

〜弥生時代の遺跡〜

方保田東原遺跡(弥生時代後期〜古墳時代前期) (山鹿市)
菊池川と支流・方保田川に挟まれた台地にある集落遺跡。
竪穴式住居跡や木棺墓、甕棺墓、そこからの遺物が出土している。
そんな出土品には日本で唯一の鉄製石包丁、中九州を中心に出土しているジョッキ型の土器、貝をモチーフにした魔除けの青銅器などがある。(→主な出土品は、山鹿市立博物館で展示中)

〜古墳時代の遺跡〜

江田船山古墳(古墳時代中期) (和水町)
※2019年1月の震災で亀裂が入ったため復旧予定
和水町の清原大地に造られた古墳群の1つ。
眼下に菊池川を望む前方後円墳で、周囲に溝がめぐり、後円の西側に家形の石棺が納められている。
有力豪族の墓と思われ、金や銅の装身具、刀や馬具、祭具などの副葬品が多数出土。
中でも古代の本格的記録文書として大きな歴史価値を持つ75文字の銀象嵌銘が刻まれた大刀は有名。
そこには「雄略天皇に仕えた"ムリテ"という者がこの地を治め、刀を作らせた」と書かれており、古墳の被葬者はこの"ムリテ"だと思われる。

大坊古墳(古墳時代後期) (玉名市)
玉名平野北側にある前方後円墳。
須恵器や土師器から水晶製の勾玉、馬具や武器など多数の副葬品が出土。

弁慶ヶ穴古墳(古墳時代後期)(山鹿市)
山鹿市の丘陵地にあり、現在は円墳になっている。
内部の石室は巨大な凝灰岩で組まれており「こんな大きな石は弁慶じゃないと扱えない!」と言われ名付けられたという。
石室全体に赤、白、灰色の装飾が描かれているいわゆる「装飾古墳」としては、菊池川流域で代表的な存在。
図柄は馬や人、船など具体的な模様が多い。

なお装飾古墳は古墳全体の1%にも満たないが、そのうち約17%が菊池川流域に造られている。
この数字からも、菊池川流域が装飾古墳の宝庫であることが分かる。

その他の菊池川流域の主要古墳
臼塚古墳(古墳時代後期) (山鹿市)
塚坊古墳(古墳時代後期) (和水町)
江田穴観音古墳(飛鳥時代) (和水町)

3. 飛鳥〜奈良時代の菊池川流域

飛鳥〜奈良時代の菊池川流域は、太宰府と酷似した遺品が出土するなど、大陸の来客を迎える窓口になっていた可能性が考えられます。
また荷札の出土などから、菊池界隈が福岡・佐賀方面への物流拠点としての役割も担っていたと思われます。

立願寺(廃寺)からの鬼瓦
飛鳥時代に中央政権から派遣された国司の下で地方を治めた郡司たち。
玉名では日置氏という郡司がおり、役所や米蔵、そして寺院などを建設した。
7〜8世紀頃に造営された立願寺(地名を当てているだけで正式寺号は不明)からは鬼瓦が大量に出土しており、大宰府の観世音寺のものと酷似。さらに青銅皿などの輸入陶磁も出土しており、玉名の役所や船着き場からも近いことから、大陸からの来客窓口だったとも考えられる。

鞠智城跡
鞠智城は、663年、大和朝廷が唐・新羅の連合軍に敗北した「白村江の戦い」後、大和朝廷が、侵攻に備えて西日本に築いた城の1つ。
恐らく665年に建築されたと思われる朝鮮式の山城であり、朝鮮を経て日本に至る仏像形式の念持菩薩像も出土したことから、百済人も造営に関与した可能性がある。
内陸にあること、荷札だったと思われる木簡が出土していることから、前線の大野城(福岡)・基肄城(佐賀)への武器、食料の補給地として、物流拠点の役割も果たしていたとされる。

4. 平安〜鎌倉時代 菊池一族の登場と南北朝前夜まで

平安時代に入ると、中世の菊池を語る上での欠かせない菊池一族が登場します。
大和政権は大宰府を拠点に九州を支配していましたが、その力が及ばないエリアは、現地の有力者を「府官」として組み込むことで、統括していました。
菊池一族は、都から大宰府に赴任し、菊池郡の在来豪族と結合して定着したようで、府官系の武士団だと言えます。

その後、中央で院政が行われた頃、結びつきを強め、荘園を拡大。
源平合戦の頃は、平清盛の弟・平頼盛との関係を強めます。

頼盛は兄・清盛と仲が悪く、源平合戦の後、鎌倉幕府の庇護を受けた人物です。
菊池氏は一度平家に反抗したものの鎮圧され、最終的に、平家に従属していました。

しかし、頼盛との結びつきもあってか、源平の戦後処理の結果、大分権益を削られたものの、国府の中枢機能は確保することができました。
しかも、北条氏、守護の大友氏と血縁関係を結んでおり、鎌倉幕府からも肥後支配の中枢として重用されていたことが分かります。

その後、政変などで守護の移り変わりなどあったものの、菊池一族は勢力を維持。
時代は、南北朝の動乱へと突入します。


(菊池初代〜6代目 菊池神社歴史館より)

「源氏物語」と菊池一族
平安時代に書かれた源氏物語には菊池一族がモデルとなった人物が登場している。
玉鬘(たまかずら)に求婚するいかめしい大夫がそれ。紫式部は筑前守に任じられた夫・藤原宣孝などから聞いた話を基に創作されたらしい。
なお熊本県立美術館での特別展では、戦国時代の武将・歌人である細川幽斎自筆の源氏物語(手元に置いたことから垢付本とも呼ばれる)が展示された。

菊池一族の歴史が描かれた史料
・菊池武朝の申し状 (南北朝時代末期)
当時の当主・菊池武朝が南朝の勅使に、自分たちがいかに先祖代々、南朝(朝廷)のために尽くしてきたかを訴えた書状
・大日本史(江戸時代)
徳川光圀が編纂させたことで有名。列伝に、菊池武時、武重、武光、武朝が取り上げられ、一族の歴史にも触れている。
などが挙げられる。

元寇での菊池一族
竹崎季長が描かせた絵巻物「蒙古襲来絵詞」には、菊池10代目・武房の軍勢が季長を見守る場面がある。
絵の説明には、菊池勢が文永の役で大戦功をあげたことが書かれており、絵でも武威が強調された描きっぷりになっている。
こうした軍備の充実が可能だった背景として、北条氏としての結びつきが強かったことが挙げられる。
その裏付けとして、武房が発給した中で唯一残存する書状の存在がある。
これは、北条一門の重鎮・北条政村が亡くなった時、異国警護の役務で動けない自分に代わり、知人を弔問に行かせる旨をしたためたもの。
また、鎮西探題・北条英時が菊池武時に重要な役割を与えている書状も残っており、12代目・武時も当初は北条氏に従っていたことが分かる。
しかし、彼はその後、後醍醐天皇を奉じ、英時がいる博多を襲撃することになる。

5. 南北朝時代の菊池一族

前述の通り、当初は北条氏に臣従していた12代目・武時でしたが、後に鎮西探題・北条英時を襲撃しました。
この様子は、太平記や博多日記に登場し、いずれも共通して、少弐、大友の2氏の挙兵は行われなかったため、錦旗を立てて鎮西館で奮戦したものの憤死したことが描かれています。
後に楠木正成が、倒幕第一の勲功だと讃えたため、建武新政下で13代目・菊池武重は「肥後守」に任じられます。
鎌倉時代、北条氏と結びつきがあっても東国の御家人しか任じられなかった身分に遇されたのです。

こうした恩義もあり、菊池氏はその後、官軍方として戦うことになります。
武重は、新田義貞の下、箱根竹ノ下での戦いで、先鋒として足利尊氏と戦い活躍しましたが、官軍(新田方)は敗北。
その後、多々良浜の戦い、湊川の戦いで菊池氏と尊氏は対峙しますが、いずれも尊氏の勝利に終わっています。

劣勢になった官軍ですが、後醍醐天皇が吉野に脱出したことで南北朝時代が到来。
後醍醐天皇は、懐良親王を征西将軍として、自ら書いた「金烏の御旗」と、阿蘇神社の大宮司であった阿蘇一門への綸旨を与え、九州に送ります。

菊池一族では、武重の跡を継いだ14代目・身体も弱かったことから引退・出家し、武時の八男で当初は「豊田十郎」と名乗っていた菊池武光が15代目当主となります。

思惑が外れ、阿蘇一門を味方にすることができなかった懐良親王は、菊池入りし、成人を迎えた後、本格的に征西事業に着手。
丁度、中央では足利尊氏の弟・直義と執事の高師直の不仲から内乱が起こり、そのあおりで、直義の養子・直冬が九州にやってきます。
こうした混乱もあり、漁夫の利を得た懐良親王と武光は、勢力拡大に成功。
武光は、親王がいる征西府と現地の勢力を仲介する役割と、合戦での軍事指揮権、そして守護としての権限をもって地場の統治を担っていたことが、彼の発給文書から分かっています。

こうして大宰府を手中におさめた征西府でしたが、そのピーク過ぎから武光の書状はなくなり、その後、息子・武政、孫・武朝が南朝方として戦います。
しかし、今川了俊の攻撃により、南朝は徐々に勢力が縮小。最終的には、菊池も陥落します。


大智禅僧
現在の宇城市で生まれ、中国・元で11年修行し、曹洞宗に伝わる道元の袈裟を継承した大智禅僧は、菊池武重が招かれ菊池に来ている。
精神的支柱として当主の相談に乗っていたようで、14代目・武士は彼に「「私は生まれつき愚かで……」と心中を吐露した自虐的な書状を送っている。

菊池千本槍
菊池武重は箱根竹ノ下の戦いで、竹を切らせ、先端に短刀を結び付けて槍の代わりとして大いに敵を破ったという。
その後、菊池帰還し、槍を造らせ、それが千本に達したため、菊池千本槍と称するようになった。


(菊池千本槍 菊池神社歴史館より)

菊池武重起請文
我が国最古の血判起請文。
官軍方が劣勢になる中、菊池一族の中でも動揺が走ったようで、武重は「宮方に付くか武家方に付くかは(当主である)武重が決める」としている。


(菊池武重起請文 菊池神社歴史館より)

懐良親王と金烏の御旗
後醍醐天皇の皇子・懐良親王は、征西将軍として薩摩へ上陸した。
この時に掲げていたのが父が自ら書いた御旗であった。
中央に、当時、太陽の中にいるとされた烏。その上に「八幡大菩薩」と描かれたもので、熊本県立美術館での特別展でも目玉となる展示だったといえる。
菊池武光の支えで、太宰府を征した南朝であったが、今川了俊の登場で状況は一変。後退を余儀なくされる。
この過程は、北朝方の御家人・山内通忠の軍忠状に詳しく書かれている。
懐良親王は最後まで南朝の復権を目指していたが、最後は筑後(福岡県・八女市)で亡くなったという。

6. その後の菊池一族

今川了俊の軍門に降った菊池一族でしたが、その後は、新たな九州探題・渋川氏と紛争が起こった他は、幕府とは良好な関係を築いたようで、肥後の守護職も回復しています。
本拠地の隈府(現在の菊池市)では、文化面でも繁栄し、1481年には万句連歌というイベント(1日に1万句を詠む集まり)を開催しています。当時の当主・菊池重朝は、20会場で500句ずつを詠ませています。

しかし若年の武運が跡を継ぐと、侮られ反乱が相次ぎます。
豊後の大友氏、阿蘇大宮司一門なども介入し、最終的に、大友義長の次男・重治が菊池義武の名で当主となりますが、彼は大友氏と敵対します。
この結果、大友氏が肥後を侵略し、室町将軍家(足利義晴)は、大友氏(義鑑)を肥後守護職に任ずる御教書を発行。
こうして肥後領主・菊池氏は滅亡し、再興も叶うことはありませんでした。

室町将軍家御判御教書
菊池家の当主となった菊池義武が、大内氏と結び、大友氏に反旗を翻すと、大友氏は肥後北部を制圧。
室町幕府に働きかけ、肥後守護職を大友氏に与えさせることに成功する。
この辞令を契機として、大友氏は本格的に肥後の掌握を行った。

7. 戦国〜江戸時代の菊池川流域

戦国期に入ると肥後は大友氏が統治しますが、菊池の旧臣である有力国衆は支配を委任されました。
やがて薩摩の島津氏、肥前の龍造寺氏が勢力を拡大すると、彼らは生き残りをかけて動きます。
そんな中、菊池義武の息子・則直は、大友氏と対立する中国地方の雄・毛利氏が反大友勢力をまとめる旗頭として利用しようと画策したようですが、最終的には島津氏が九州全域に勢力を拡大したことで夢と消え、その後、豊臣秀吉が全国統一し、佐々成政が肥後入り。
彼が引き起こした肥後の国衆一揆により、菊池一族ゆかりの国衆はほぼ全滅したのでした。

その後、加藤清正が入国すると、各地で土木工事が行われ、菊池川の流路を変更することで、江戸時代から昭和へと継続して行われる有明海干拓事業の基盤が築かれました。
江戸時代に、細川氏が入国した後も、農業基盤の整備は進められ、御蔵や御茶屋が設置され、重要性も高まりました。

玉名の高瀬津
戦国時代、玉名の高瀬は貿易品の荷揚げ拠点になっていた。
大友宗麟が菊池氏の家老ゆかりの人物に「石火矢(大砲)が高瀬に到着したので、豊後まで運ばせるつもりだ」と連絡する書状も現存している。
熊本県立美術館での特別展では、その書状や、高瀬から運ばれた大砲「国崩し」の複製も展示されていた。

家久君上京日記
薩摩・島津四兄弟の1人、家久は伊勢参詣をした際の旅日記「家久君上京日記」を書いている。
この中に、山賀(山鹿)を訪れた際の箇所があり、「町(山鹿)中に出湯有」と書かれている。
家久たちも湯に入ったようで、戦国時代も山鹿が湯の町として栄えていた様子が伺える。


※本ページの記載は、大部分を「日本遺産認定記念 菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」展の図録および観覧当日の筆者メモをベースにし、その他以下の資料を参考に記載しています。
今後、菊池一族に関する書籍をさらに読み込んで追記・加筆した際は、参考文献も追加していきます。
・菊池市の文化財 (菊池市教育委員会)
・玉名市歴史ガイドブック ふるさと文化財探訪-改訂版- (玉名市教育委員会)
「菊池川流域 日本遺産」公式ウェブサイト
「菊池市」公式ウェブサイト内 菊池一族
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8. 菊池一族・関連史跡探訪(準備中)

(準備中です)



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