Mr.Win's Room

Mr.Win's Room

Home / Profile / Music Works / Essay / Memo / Kyushu


大地の子


2026年3月8日(日)12時00分開演
会場:明治座
脚本:マキノノゾミ
演出:栗山民也

陸一心:井上芳雄
張玉花(松本あつ子):奈緒
江月梅:上白石萌歌
陸徳志:山西惇
松本耕次:益岡徹
袁力本:飯田洋輔
黄書海:浅野雅博


山崎豊子の大作『大地の子』を初めて読んだのは高校生の頃だった。
文革の批判大会での吊るし上げという衝撃的な場面から始まる主人公・陸一心の数奇な運命、宝華製鉄建設の行方、さらには中国の政治闘争まで描かれる壮大な物語に夢中になったのを覚えている。

この作品の魅力は、「戦争に翻弄された悲惨な運命」だけでなく、「そんな状況でも生きようと必死にもがく人々の力強さ」を、膨大な調査をもとに描き出している点だ。
とりわけ、中国人と日本人という2つのアイデンティティの狭間で葛藤した一心が、自らを「大地の子」と伝えるラストは、実父との埋められない隔たりの哀しみと同時に、戦争孤児という境遇を持ちながらも大地を生き抜いてきた強さも感じられ、心を打たれた。

だから本作の舞台化を知った時は「これは絶対に観たい」と思った。そしてチケットを手にしてからは、次の三点を特に楽しみにしていた。

1. 物語の再構築
この大作のすべてを上演時間に収めることは不可能だ。だからこそ、どのテーマを軸に据え、どの場面を選んで物語を組み立てるのだろうか

2. 舞台ならではの表現
原作で詳細に描かれた心理や情景が、生の舞台でどう具現化されるのか。特に登場人物の感情が大きく動く場面がどう表現されるのか

3. キャラクターの造形
舞台ならではのアレンジをしつつも、原作の印象を踏まえた人物像が見たい。特にドラマ版で印象的だった陸徳志や江月梅が、舞台ではどのように表現されるのか


しかし、実際に観終わった率直な感想は「これじゃない」だった。
理由は大きく次の六点に集約される。
a. 切り口が「戦争に翻弄される悲劇」に偏り、「悲惨な状況でも生きようともがく人々の力強さ」が感じにくかった
b. 「戦争孤児として日本人と中国人の狭間で葛藤する一心」という原作のメインテーマが十分に掘り下げられていなかった
c. 戦争の悲劇を強調する構成にもかかわらず、象徴的な場面が削られていた
d. 台詞に説明が詰め込まれ、人物の心理を感じ取る余白が乏しかった
e. 配置順序の影響で、より胸に迫るはずの場面における説得力が弱まっていた
f. 一部キャラクターの造形に違和感があった

以下、それぞれについて述べたい。


a. 「戦争による悲劇」に偏り、「生きる力」が見えにくくなっていた

舞台の構成を俯瞰すると、前半は主に単行本一巻のダイジェスト、後半は二巻を中心に「あつ子との再会」や「大地の子と名乗る場面」をつなぐ形になっていた。

物語のハイライトとして据えられていたのは、妹・あつ子との再会だ。
彼女は勝男(一心)を兄と認識すると、それまで被っていた「過酷な状況を生き延びるための建前」を脱ぎ捨て、「酷使され、望まない嫁にされ、五人の子を産まされ、死にかけている」という凄惨な境遇への苦しみを吐き出し、「日本に行きたい」と訴える。

この場面を特に丁寧に描いた点や脚本家・出演者のコメントからも、本作が「日本の侵略が生んだ犠牲者」や「声なき声」を描こうとしていることは明確だった。つまり本舞台は、「戦争の悲劇」を中心に据えた作品であった。
山崎豊子さんも戦争への怒りから原作を書いた。だから、このこと自体に異論はない。

しかし一方で、悲惨さを強調するあまり、そんな状況下で見える人々の生きる力が薄れていたように感じる。
例えば労改の囚人たちが死にゆく様を一心が淡々と語る場面。
原作では、彼らの中には信用できない人物や嫌悪感を抱かせる人物もいるが、それでも「苦役を共にした仲間」としてある種の連帯や友情が垣間見える。ところが舞台ではその温度は描かれず、死のエピソードだけが淡々と語られていく。
結果として「戦争孤児になったが故に、文革に巻き込まれ、恐ろしく過酷な環境に置かれた一心の悲惨さ」ばかりが強調され、一心と囚人との間に通った人間的な温もりは描かれていなかった。


b. 「日本人と中国人の狭間で葛藤する一心」が充分に描かれていない

「侵略戦争の悲劇」を中心に据える構成であったとしても、原作最大のテーマである「日本人と中国人の狭間で葛藤する一心」という軸は、もっと強く描かれるべきだったと思う。

一心の葛藤は単純なものではない。
日本人であるというだけで蔑まれる苦しみ、そこから生まれる日本への憎しみや、自分は愛する義父母や妻、仲間と同じ中国人なのだという自認、中国人としての誇り。それでも消えない故郷への心のときめき。そして実父の家で味わった安らぎ。こうした感情が複雑に絡み合っている。

舞台でも黄書海から日本語を習う場面はある。しかし、一心がこうした葛藤を自問自答する場面は殆どなく、人物の内面が深く掘り下げられているようには感じ得なかった。

中国共産党員になったことを祝福される場面も登場するが、それが彼にとってどれほど大きな意味を持つ出来事なのか、もう一歩踏み込んだ描写があってもよかったのではないかと思う。

もしそこまで描ききることが難しいのであれば、せめて「日本人であるだけで蔑まれる苦しみ」はもっと強く提示してほしかった。
それこそが、中国戦争孤児ゆえの苦しみであり侵略による悲劇なのだから。

例えば、甥たちに穴に埋められ殺されそうになる場面、あるいは学生時代、恋人・趙丹青に日本人であると打ち明けた瞬間に振られる場面など。とりわけ後者は、思春期の一心が受けた精神的な痛みとして強く印象に残るエピソードだ。

もし本作が「戦争孤児の悲劇」に重きを置くのであれば、(あの描き方であれば)労改のシーンを整理し、これらのいずれか1つでも取り入れるべきではなかっただろうか。


c. 削られた象徴的場面

同様に疑問を感じたのが、いくつかの象徴的な場面が省かれていた点だ。

原作には、戦争孤児たちが「三度も見捨てないで!」と訴える場面がある。
祖国の大人たちの都合によって人生を狂わされた子どもたちの苦しみが端的に表された印象的な台詞だ。
先程同様、「戦争孤児の悲劇」に重きを置くのであれば、この場面も必要だったのではないだろうか。

また「(闘争状態における)尊厳の喪失」も描くならば、陸徳志が餓死寸前の難民から食料を奪うエピソードは欠かせない。聖人のように描かれる彼でさえ、極限状態ではそのような行動に追い込まれる。あの場面こそ、闘争状態が人間の価値観を破壊してしまう恐ろしさを象徴していると思う。


d. 回想の多用による感情の希薄化

本舞台では回想による語りが多く、結果として人物の感情が十分に伝わってこない場面が目立った。

例えば松本耕次の戦後の歩みも、「1960年代における回想」という形式で語られる。
そのため彼が父や妻子の死亡証明書を震える手で書いた時の慟哭や、村人を死なせてしまったことへの罪悪感は、情報としてはインプットされても、生々しい苦しみとしては伝わらなかった。

背景には、舞台上で伝えるべき情報量を整理し、必要に応じて原作の主旨を損なわない形でアレンジするという作業が不足しているように感じた。本来であれば、こうした取捨選択や構成の再編こそが脚本家の腕の見せ所であるはずだ。
実際、情報の整理がより徹底されていれば、これまで述べてきたエピソードのうち2、3は無理なく盛り込むことも可能だっただろう。それもやたらセリフで説明させず、視覚的に訴える形で。

こうした構成の背景には脚本家自身の問題意識も影響しているのかもしれない。
マキノノゾミ氏の寄稿には、現日本政権が「不忘民族恨」や「小日本鬼子」といった言葉を知らないために、中国への言葉遣いが配慮を欠き、日中関係をこじらせているかのような趣旨の記述も見られた。
しかし実際の外交は、そう単純なものではない。安全保障上の課題や国際政治の力学など、さまざまな要因を踏まえた政治発言と、戦争孤児という民間レベルの悲劇を同一線上で語ることには、違和感を覚えた。
その点も含め、「大地の子」という重層的な物語を扱うにはミスマッチだったのではないかという印象が残った。


e. 構成によって弱まった場面の説得力

本舞台は各シーンの順序が原作やドラマ版とも異なり、時系列もバラバラであった。予備知識のない観客には分かりづらかったのではないか。
この影響で、個人的に最重要場面の1つと思っている「一心が初めて陸徳志を"パーパ"と呼ぶ場面」が終盤まで登場せず、観ていて非常にモヤモヤした。
あの場面は、親子間の深い愛を観客に意識づけるために序盤で見せるべきだ。その土台があってこそ、陸徳志が北京まで一心の解放を請願しに行く姿が、より説得力を持って迫ってくるのだから。

原作同様の「文革での批判大会によるオープニング」再現がなかったのも残念だった。
山崎豊子さんは『「大地の子」と私』の中で、「連載小説は最初の数回で読者を惹き込めるかが勝負であり、だからこそ"迫力があり、かつ主人公の運命を象徴するシーン"として文革を描いた」と語っている。
(中国との合作ゆえに)描写がマイルドだったドラマ版では構成を変えていたが、舞台ならばこの印象的なシーンを冒頭で強烈に描いてほしかった。
ところが、舞台ではいきなりあつ子の語り、しかも結構ハキハキした語りから始まったため、正直肩透かしを食らった気分だった(批判大会のシーンも、その後登場したがやや穏やかなトーンであった)。


f. キャラクター造形への違和感

江月梅こそ(ドラマ版の蒋雯麗さんの面影も感じられ)イメージに近かったが、陸徳志は、やたら多弁なため原作の持つ清廉で重厚な印象が薄まり、軽い人物に映った。
特に、袁力本たちから「一心を養子にした経緯」を聞かれた時、後ずさりしたのはあり得ない。あそこはむしろ一歩前に出て、堂々と反論するべきシーンだ。彼は圧力に屈せず愛を貫く人なのだから。

袁力本に関していえば、今回の内容なら無理に登場させなくても成立したと思う。
どうせ登場させるなら、例えば、陸徳志や秀蘭に会いに来るシーンで道行く范家屯の人々に「やぁ」と一言笑顔で声掛けする数秒を入れるだけでも「郷里を離れていても親愛で迎えられる人柄」だと表現できただろうに。

最も違和感があったのはラストの松本耕次だ。
原作では、大ラスト、2人が親子として長江三峡下りをしながら会話する中で、言う機会を慎重に伺っていた耕次が、耐えられず切羽詰まったように「日本に来ないか」と切り出す。
そして翌日の晩、溜めていた思いを吐露するように「息子のお前と暮らしたいのだ……」と言葉を詰まらせるのだが。

本舞台では、一心が初めて陸徳志を「パーパ」と呼んだ話を聞いた直後、ほとんど間を置かず明るい調子で「でも私も独りで辛いから日本に来てほしい」と頼む姿には首を横に振らざるを得なかった。
養父との愛情の象徴的な話を聞いた直後なのだから、もう少し葛藤を見せてほしかった。


そんなわけで、私が期待していた「大地の子」はこれではなかった。
舞台化による諸々の制約を加味しても、これではなかった。



copyright1
(F،˗)

(C) 2001-2026 copyrights.Ryo Kido