中井庄五郎殉難の地(天満屋跡)

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西本願寺の太鼓楼から堀川通りを挟んで入った油小路通りを少し南に行くと、西側にあるのがこの石碑。

近江屋事件で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された後、海援隊士・陸奥宗光らは敵を討つべく犯人とおぼしき人物を探します。
結果浮かび上がってきたのが、紀州藩士・三浦休太郎でした。

海援隊の物資を運ぶいろは丸が紀州藩の軍艦・明光丸と衝突し沈没した、いわゆる「いろは丸沈没事件」は、龍馬が万国公法を持ち出した日本初の海難審判となりましたが、この事件で、多額の弁償金を支払わされた恨みを持つ紀州藩が暗殺の黒幕であったとの噂が流布していたこと。
そして、三浦が佐幕論者であったことなどから、海援隊は三浦に照準を合わせたのです。

危険を感じた紀州藩側も新撰組に三浦の警護を依頼。
そして訪れた1868年1月(当時の暦では12月)、三浦休太郎、新選組隊士らが天満屋2階にて酒宴を行っていたところを海援隊・陸援隊の隊士たちが襲います。(天満屋事件)

この時、一番乗りしたのが十津川郷士の中井庄五郎。
彼は、生前の龍馬が、自分を軽んじることなく時論を語ってくれたことに感激した龍馬信奉者の1人でした。

中井は奮戦しますが、相手は幾多の修羅場を越えてきた新撰組。(同事件の際、現場には斎藤一、大石鍬次郎などがいました)
力及ばず斬られてしまいます。若干21歳という若さでした。

この事件で襲撃側唯一の死者となった中井を弔うかのように、天満屋跡には「中井正五郎殉難之地」の石碑が建っています。





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