贋作・桜の森の満開の下 2001年6月20日(水)午後7時開演 会場:新国立劇場 作:野田秀樹 演出:野田秀樹 美術:堀尾幸男 耳男:堤真一 マナコ:古田新太 オオアマ:入江雅人 夜長姫:深津絵里 早寝姫:京野ことみ ヒダの王:野田秀樹 エンマ:大倉孝二 ハンニャ:犬山犬子 赤名人:荒川良々 青名人:平沢智 【ストーリー】 時は天智天皇の時代。ひとの世界とオニの世界があった時代。ヒダの国の王家には夜長姫(深津絵里)と早寝姫(京野ことみ)という2人の姫がいた。 ヒダの匠の弟子・耳男(堤真一)は、師匠を殺害してしまうが、その直後にヒダの王家に匠と間違えられ連れ去られる。 そこには、やはり名人の匠を殺害し、匠と間違えられて連れてこられた山賊のマナコ(古田新太)と、その素性を黙して語らないオオアマ(入江雅人)と名乗る名人も集められる。 この3人にヒダの王(野田秀樹)が命じたのは、3年の間に、2人の姫の身を護るミホトケの仏像を彫ることであった。 3人とも名人のふりをしているだけで、オオアマにいたっては、その本性は次期天皇を狙うオオアマノオウジだった。 夜長姫は美しいが残酷な性分で、耳男は両方の耳を切りとられてしまう。夜長姫のあどけない笑顔と狂気に翻弄されつつも、しだいに耳男は夜長姫に惹かれて行く。 早寝姫が死に、天智天皇も逝去した年の正月。3人の審判の日が来た。 耳男のつくった鬼の形相をした像を夜長姫が選んだ時、「鬼門」が開き、世界の裏に侵入する・・・。 やがてオオアマが、天武天皇となり世界が一変した。 新たな時代の中、地位が揺らぐのを恐れた天武天皇は、耳男を鬼とすることで安定を得ようと図る。 そして国を追われた耳男の前に夜長姫が現れてこう言う「あたしも連れてっておくれよ」と・・・・。 【客入り】 女性客が多く、完全に満杯。 【感想】 初めて観た野田作品。 演劇界での野田秀樹氏は、ロック・ミュージックにおけるジミ・ヘンドリクス。野球における野茂。 そう言っても良いぐらい非常に影響力を持った先駆者……というのが私が持っていた認識で。 "さぁどんな舞台か!"と楽しみだったのだが、結論から言うと期待外れ。 この後も、野田作品はいくつか観劇しているが、どうも私にとっての野田作品は当たり外れが激しい。 本作は×だったが、後に見た"売り言葉"は◎だったし。 裏返せば、色んなタイプの作品を作っている……とも言え、凄い人なのだろうなと思う。知らんけど。 というわけで、のっけから"外れ"と言ってしまったが、それはあくまでも個人の感想。 事実、この作品は、世間では非常に評価が高い作品だったりする。 まず、本作はタイトルからも分かる通り、坂口安吾の"桜の森の満開の下"、"夜長姫と耳男"を下敷きに書かれたもの。 元々は野田氏主宰の劇団、夢の遊眠社で上演されていた(1989年初演、92年再演) 野田作品の特徴に"古典作品のリメイク"が挙げられるが、まさにその1つ。 ただ、私は当時、坂口安吾作品は"白痴"ぐらいしか読んでなく、何がどうリメイクされたのか分からなかった。 なので、単に私が予習不足だから面白さが分からなかっただけなのだと思う。 そんな予習不足な奴が観た感想としては…… 〜良かった点〜 ・舞台装置が大掛かりだった。特にラストで文字通り、桜の花が満開。その下での耳男、夜長姫のシーンは圧巻 ・舞台の奥行きが凄く広かった。 あれを観ただけでも行った価値がある 〜悪かった点〜 ・ストーリーがよく分からん。 ・深津絵里の夜長姫。無邪気というより、騒がしいだけ。無邪気さゆえの残酷性はセリフの上でしか感じられず、低い声にも、迫力無い。 ・寒いギャグばっかで引いた。 ・野田氏のはしゃぎっぷりも度を過ぎれば、イタかった。 〜作品から受けた印象〜 物語自体は、"人と鬼について"、"国づくりについて"、"3人の匠のそれぞれの思惑について"等、様々な視点から見ることが出来る。 国づくりや彫り師という部分が、手塚治虫の「火の鳥(鳳凰編)」を思い出させた。 パンフレットにも書いてある、アニミズムの崩壊は感じ取れた。 多分、"寒いギャグばっかで引いた"というのは予習してようと、してまいと変わらなかったと思う。 あとは、この日の席が2F後方だったのも楽しめなかった理由だろうな。コンサートと違い、ステージが豆粒状態の演劇はそれだけでシンドイから。 |
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